おとなりクラブ ぼっちの私の40年ちょっと

毒家族の中で居場所を作るために家事をする小学生の私を嫌う毒兄の存在

毒家族へ

田舎の新興住宅地へ
引っ越した我が家は
その地域に馴染めている様子もなく
私の小学校生活が始まった。

私の家が浮いている理由はこちら
宗教2世はめちゃくちゃキツイ 新興宗教で働く父と幸せそうじゃない信者

私の嫌われ者人生は
ここから始まったのかもしれない。

最初から失敗だった小学校時代

近所付き合いも
ほとんどない我が家。
私は同じ地域の女の子が
声を掛け合って集団登校している中
呼んでもらえない特殊な子だった。
 
その理由は
最初に誘いに来た時に
誘いに乗らなかったから
と説明された気がするけれど
小1の私に
その判断が出来たのかは
疑問でしかない。
 
なんのことはない
嫌われていたということ。
 
母はその状況を解決するためには
ひとつも動いてくれず
私に解決する能力などなく
その状況は6年間続いた。
 
小学校に上がると同時に
移り住んだその土地で
スタートから失敗した私は
嫌われ続けた。
 

友達と楽しく過ごしている兄

小2で転校となった兄は
何人かの友達も出来て
私とは対照的に
とても楽しい小中学校時代を
過ごしていたと思う。
 
何度かは兄について行って
遊んだ記憶がある。
でも自分の家来のように
私を思い通りにしたい兄は
外面がとても良かったため
その時にはあまり怒らなかったけれど
帰宅後に私の態度の気に入らなかったところを
ぐちぐちと責め立てるか
完全に無視するかしていた。
 
兄の顔色を見るのに疲れるので
さほど楽しくもない
兄との遊びに参加することは無くなった。
 
やたら外面の良い兄のことを
先生や親戚の大人たちは褒めていた。
それに比べて
物事をよく理解出来ていない私は
疑問に思ったことや
相手にとって不都合なことを言っては嫌われた。
 

私を嘲笑う毒家族

両親も他所の大人と同じようなリアクションをした。
 
私の質問に答えるのを面倒臭がり
知恵の回る兄の言い分を信じた。
 
知らないことを質問すると
それを遮るように兄は
「そんなことも知らないのか」と
率先して大きな声で馬鹿にし
両親はそれを嗜めるのではなく
一緒になって笑い
私の知りたかったことの回答は
得られなかった。
 
インターネットも無い時代。
情報を得るには
大人に質問するのが一番だと思っていた。
民放も2局しかないど田舎で
欲しい情報はタイムリーに放送されるはずもなく
新聞を読んでも知らない言葉ばかり。
 
知らないことを知りたいという
シンプルな欲求が
自分の中に蓄積されていった。
 

知らない大人に親切にしてもらっていた

毒家族に質問しても
嫌な思いをするだけで
何も答えてもらえない。
 
答えてくれる時は
それはそれは鬱陶しいといった様子で
「それはこういうこと」
と言い放ち
それ以上は聞いてくるな
という空気で黙らされる。
 
それでも食い下がろうとすると
深いため息を吐きながら
「ちょっと忙しいから後にして」
と言われる。
もちろん待っていても
後から時間を作ってくれたことは一度もない。
 
私は他人の大人と
よく話すようになった。
それは自宅の隣の畑のおばあさんだったり
近くの建設現場の
大工のおじさんだったりした。
 
何をしてるの?
 
そう聞いた私に
大人たちは優しく答えてくれた。
「今は残りのお野菜を収穫してしまってるとこよ」
「ここに家が建つんだよー」とか。
 
おばあさんは
お茶の時間に一緒におやつを分けてくれたり
大工のおじさんは
手を休めてヘルメットを打ち鳴らして
馬の蹄の音を出してくれたりした。
 
小学校の帰りにある
マンションの管理人さんと仲良くなり
管理人室でコタツに入って
おやつを食べたりしていた。
 
美容室のおばさんは
お客さんの少ない時間に
店に置いてある漫画を読ませてくれた。
 
今では考えられないけど
知らない大人について行っていた。
 
母にはよく
「知らない人について行ったらダメよ」
と言われていたけれど。
少し会話して仲良くなった人は
私にとって知り合いだった。
 
会話もしてくれない家族より
ずっとずっと
優しくて良い人たちだった。
 
帰宅しても両親は居ないし
テレビを占領して
私からおやつを奪って
怒鳴りつける兄の居る家に
帰りたくなかった。
 

めちゃくちゃ遠い小学校

小学生の頃のことを
全部は思い出せないけれど
おおまかな日々のルーティーンはこんなだった。
 
朝起きて学校に行く準備をする。
朝ごはんはパンがあったりしたと思う。
父だけがコーヒーとクッキーを食べていた。
父のクッキーに手を出した日
帰宅した父に
予想通りに殴られた。
 
父は先に出て行くことが多かった。
母は毎日出勤先が違うので
早い時はとても早かった。
 
小学校は子どもの足で
30分近くかかる場所にあった。
距離は1.5キロくらいだけど
アップダウンの多い道で
さらに学校は山の上にあった。
とぼとぼと歩き続けて
学校へ着く頃にはもう疲れていた。
 
現在私の住んでいるところは
学区内の小学校が徒歩5分程度のところにある。
坂道もない。
今の場所を選んだ時に母から
「小学校が近くて良かったわね」
と言われた。
 
当然その辺もリサーチして
家を選んだと答えたら
「えーそんなこと全然考えなかったわ」
と笑っていた。
それどころか
「毎日沢山歩けたおかげで健康になって良かったじゃない」
とまで言われた。
 
大人になってから車で
昔の家を訪れた時
帰宅途中の小学生たちがいた。
車に気がつくと
子どもたちは振り向き
みんな揃って期待を込めた目線を
こちらに送ってきた。
 
私もそうだった。
自動車のエンジン音が聞こえると
自分の知っている人じゃないか
乗せて帰ってくれるんじゃないか
誰でも良いから家まで送って欲しい。
本気でそう思っていた。
 
この田舎で暮らす子どもたちは
今も同じように大変なんだな
と想像した。
自分が大人になったら
小学生をみんな車に乗せてあげよう
なんて考えていたけれど
実際に大人になった私は
他人の子どもを車に乗せることが
犯罪と思われても仕方ないと
知っているのでそうはしなかった。
 
余計なお世話だけど
その子たちに同情した。
親が住む場所を選ぶ際
小学校までの道のりを
考えてもらえなかった同士のような気持ち。
もちろんそれぞれ事情は違うので
我が家とは違うだろうけれど。
 
友だちのいない私は
行きも帰りもほとんど一人ぼっちで
図書館で借りた本を読みながら
歩いていることも多かった。
 

帰宅しても一人ぼっち

小学校が終わると
またとぼとぼと歩いて帰宅する。
ど田舎だから大丈夫という理由と
うっかりしている私が
鍵を何度か無くしたことで母は
家のどこかの鍵を開けたままにしていた。
鍵っ子にしたくない
とかも言っていた気がする。
 
大して外構にお金もかけてない我が家は
道路に面したところの他は
空き地と畑だったので
近所からは丸見えだった。
 
住宅メーカーのパッケージ
そのままみたいな家だったので
こだわりもなく無駄に大きな窓が付いていたりして
本当に丸見えだったと思う。
 
裏と呼べるのかわからない勝手口から家に入っても
玄関から入っても同じだっただろう。
 
庭側の掃き出しから
家に入ることもよくあった。
帰宅しても誰もいない家は静かだった。
 
兄がいないと思うと
ほっとしていた。
 
自宅学習をする習慣
をつけてもらえなかった私は
おやつを食べた後は
ただぼんやりと
本を読んだりして過ごした。
退屈になって外に出ても
どこにも行くあてはなかった。
 
自分が親になって知ったのだけど
自宅学習や宿題をする習慣というのは
親が側にいて教えていくことらしい。
トイレトレーニングと同じ。
 
小学生になったのだからといって
自主的に出来るようになるものではない。
計画性を持って何かをやるなんてことは
大人になったって苦手な人も多いと思う。
 
だけど家に大人は居なかった。
大人たちが帰宅した頃には
祈る時間を強制的に取られ
早くご飯を食べるように言われ
お風呂に入ったらすぐに寝る時間だった。
 
そうして毎日が過ぎていった。
 
ちなみに両親から
宿題をしたのか
聞かれたことはないし
学校はどうだったか
聞かれた記憶もない。
私に興味などなかったのだろう。
宿題をしてこない私を
担任教師はひどく嫌った。
 
何度怒られても立たされても
宿題をしなければいけない
ということがわからなかった。
帰宅するのに疲れて忘れてしまうから。
 
兄が帰宅した後は
兄が何かのきっかけで
私に関わってこないように
息を潜めて部屋に篭って本を読んだ。
それでも1階から兄は私を呼びつけ
自分のためにカルピスを入れろと命令した。

家事を手伝う子ども

家事を手伝う子ども
空いている時間に
私はせっせと掃除をしたりした。
庭の草をむしったり
玄関のたたきを
拭きあげたりした。
 
そうすると帰宅した母が
それに気がついて誉めてくれる。
役に立つことで
目を合わせてもらえるから
私は定期的にそういうことをした。
 
皿洗いをしたり
洗濯物を取り入れて畳んだりした。
 
しかし兄はそれが気に入らなかった。
なぜか私より前に
「(私)が掃除したんだよ」
と母に報告した。
まるで自分の指示で
私が動いたかのように話した。
そして母にバレないように
私を睨んでいた。
 
母は一瞬私を誉めるが
それを見ている兄が
不機嫌になる前にそれをやめて
兄の話相手になった。
 
それでも私は役に立つ子だと
思われたかった。
必要のない子にならないように
必死だった。

ごめんねと言われる方の子

母が時々プレゼントをくれた。
それは仕事でもらった
ノベルティーであったり
誰かにもらったもの
であることがほとんどで
自主的に買って用意してくれた
というわけではなかった。
 
でも何かをもらえることは嬉しくて
母が「ちょっと見てみて」
と言うとワクワクして駆け寄った。
 
同じものが二つある時は
問題ないのだけど
違うものがひとつづつある
こともよくあった。
 
2つの物を前にして母は
どちらが良いとか言う前に
私に向かって小さめの声で
「ごめんね」と言って目配せをした。
そして兄に向かって
「どっちが良い?」と尋ねた。
 
私はどっちでも良かったし
母が私にごめんねと言うのは
私を信頼しているからだと思っていた。
不機嫌になると
手をつけられなくなる
兄の機嫌を損ねたくないのだ
と聞かされたこともあった。
だから母の役に立てるのなら
自分は後回しで良いと思っていた。
 
余った方を与えられた私は
それを大切に扱った。
もらえたことが嬉しかったし
元々物を大切にするタイプ。
でもそれを見ていた兄は
私が持っている方を欲しがるようになった。
それも1度や2度じゃなかった。
交換しろと言われて交換しても
やはり羨ましくなるらしく
仕舞いにはどちらも自分の物にしないと
気が済まなかった。
 
「お前に迷惑をかけられたから寄越すべき」
みたいな理屈で
理不尽に奪ったものも
兄はすぐに飽きてしまっていた。
それを母に訴えても
「ごめんね」と言うだけで
兄を咎めることはなかった。